ハインツ日本株式会社

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洋食文化を提案してきたハインツの歴史

H.J.ハインツは1869年に創立され、130年以上の歴史を誇ります。ハインツ日本は40年以上に渡り日本において洋食文化を提案してきました。世界のハインツと日本のハインツの歴史を様々なエピソードを交えながら紹介していきます。

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創業者 ヘンリー・ジョン・ハインツ

ピュアな製品作りにこだわったヘンリー

H.J.Heinz社の創業者であるヘンリー・ジョン・ハインツは、1844年10月11日、アメリカのペンシルバニア州ピッツバーグで、煉瓦工場を経営する父親と、家庭菜園を営む母親の長男として生まれました。決して子供を甘やかすことのなかった母親の影響を受け、ヘンリーは幼い頃から母親の菜園で収穫した野菜を売り歩き、生涯にわたって従事した食品事業の基礎を身に付けていくのでした。

生まれながらに商才が長けていたヘンリーは、12歳になる頃には家庭菜園を拡大し、収益の一部を馬や馬車に投資することにより、家族により多くの収入をもたらしました。その後、15歳になったヘンリーは、売れ残った野菜を無駄にしないよう、瓶に詰めて保管することを考えます。

ヘンリーが暮らす西部ペンシルバニア地方は、上質のホースラディッシュ(西洋わさび)の栽培に適した環境。各家庭で余剰となったホースラディッシュは、常備食用として緑色の瓶に詰められ販売されていましたが、ヘンリーはこの「緑色の瓶」に疑問をもちます。濃い色の瓶では製品の純粋さを伝えることができない、と考えたのです。実際に、当時の瓶詰め西洋わさびは、材料として他の野菜が代用されたり、着色料・防腐剤が添加されることがありました。

ピュアな製品作りにこだわったヘンリーは、製品にごまかしが無いことを証明するため、中身が良く見える透明な瓶に西洋わさびを詰めて販売しました。当時でも自然なもの・純粋なものへの共感は大きく、ヘンリーの西洋わさびは消費者に大好評を持って受け入れられました。
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ハインツ・ノーブル・アンド・カンパニーの自己破産

ヘンリーの妻、セーラとアンカーブランドのロゴ

ヘンリーの妻、セーラとアンカーブランドのロゴ

アメリカの大陸横断鉄道が完成した1869年、ヘンリー自身にも2つの大きな変化が訪れました。セーラ・スローン・ヤングとの結婚と、ハインツ&ノーブル社の設立です。

25歳になったヘンリーは、友人のクラレンス・ノーブルと共にハインツ&ノーブル社を設立し、アンカー(錨)ブランドの名前で西洋わさびなどの瓶詰商品の販売を開始しました。
その年に開通となった大陸横断鉄道は、全国レベルでの大量輸送を可能にし、ハインツ&ノーブル社は創業当初から絶好のビジネスチャンスをつかんだのです。
事業は拡大の一途をたどり、1872年には経営を強化するとともに社名をハインツ・ノーブル・アンド・カンパニーに改名しました。同社は、1875年までに、セロリソースやピクルス、サワークラフト、ビネガーなどの幅広い調理香辛料を製造・販売するほどに成長しました。

倒産時のことを綴ったヘンリーの日記

倒産時のことを綴ったヘンリーの日記

ヘンリーの経営は順調で軌道に乗っているように思われました。ところが1875年の冬、ヘンリーに不幸の波が押し寄せます。

その年の農産物は驚異的な豊作で、通常量をはるかに超える原料、とくにピクルス用のキュウリを大量に調達したために資金繰りが悪化、さらに金融恐慌による銀行の倒産が追い討ちをかけました。
その結果、1875年12月17日、ハインツ・ノーブル・アンド・カンパニーは正式に自己破産を申し出ることになったのです。
妻へのクリスマスプレゼントはおろか、十分な食糧すら買うことが出来ず、31歳のヘンリーは辛く厳しい冬を迎えたのでした。

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キュウリのピクルスを新会社のお守りとし、新たに再スタート

歴代のトマトケチャップ

歴代のトマトケチャップ

災難の年となった1875年が明けると、ヘンリーは決意も新たに再スタートを切ります。1876年2月14日、弟のジョンと従兄弟のフレデリックと共に、F. & J. Heinz Companyを発足させたのです。妻サリーや母アンナからの協力も得て、資本金3,000ドルで設立された新会社ですが、債務者であったヘンリーは単なるサラリーマンとしてこの会社に雇われる形となりました。

ヘンリーは前社での悲痛な経験を教訓にするべく、倒産の原因となったキュウリのピクルスを新会社のお守りとし、債権者への道徳的義務を果たすことを約束したのでした。

工場の様子

工場の様子

ヘンリーの商才は、この年に再びその姿を現します。F. & J. Heinz Companyは、純正で良質な材料をベースに、人工保存料無添加の香辛料商品を販売していましたが、その創業の年に画期的な商品を発売しました。それが今日のHeinz社を代表する商品、ケチャップでした。

発売当時、ケチャップは多くの家庭で幅広く使われていましたが、主婦たちは生のトマトを洗い、刻み、絶えずかき回しながら煮詰めるところまで、多大な手間と時間を費やして自家製ケチャップを作っていました。ケチャップ作りが重労働だった状況で、ヘンリーにより大量生産・商品化された瓶詰めケチャップは、「聖なる救世」として人気を獲得し大ヒット商品となったのです。

これを弾みにF. & J. Heinz Companyは繁栄を始め、1878年にはヘンリーにとってもHeinz社にとっても初の野外広告を出すことが出来るまでに成長しました。その後も事業は成功を続け、ついに1888年、ヘンリーはフレデリックとジョンより経営権を買い取り、社名もH. J. Heinz社へと変更します。

1890年には、自身で設計した通称「ビネガー・ヒル」へと拠点を移転し、敷地内に鉄道を引くなど完璧な構造をしていたこの施設を宣伝活動にも活用しました。訪問者に対し施設内の見学ツアーを実施し、お土産に商品のサンプルやピクルスの形をしたピンを配布することにより、天性の広報活動の才能も余すことなく発揮したのでした。

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創業当時から使われている“Ketchup”の綴り

トマトケチャップはアメリカ人が大好きな調味料で、ハインツはそのケチャップの代名詞と言われています。 そのケチャップについての豆知識をご紹介します。

ケチャップの綴りと原料

Heinzケチャップのラベルを見てまず目に付くのが、 “HEINZ TOMATO KETCHUP”の文字。辞書で「ケチャップ」と検索すると、“Catsup”、“Catchup”、“Ketchup”、“Katsup”などいくつかの綴りが表示されますが、Heinzのケチャップには創業当時から“Ketchup”の綴りが使われています。
これは、ヘンリーのケチャップに対するこだわりの現れです。ケチャップの由来は、今からさかのぼること300年、中国で誕生した“Ketsiap”というスパイスの効いた魚を原料としたソースにあるといわれています。このソースがマレー半島に広まり、その後英国人の船乗りによって欧米へ伝えられる過程で、名前も“Kechap”や“Cetchup”など様々な形へ変化しましたが、ヘンリーがケチャップを商品化するにあたり、原語に近い“Ketchup”を採用したことから、現在ではこの綴りが一般的に使用されることになりました。

なおケチャップの原料も魚の他にマッシュルームやクルミなどが使われていましたが、米国で今のようにトマトが使われるようになり、それが主流になったと言われています。

コーシャー(Kosher)マークはユダヤ教の規定食品の証

(U)マーク
“HEINZ TOMATO KETCHUP”の文字の下には白抜きの社名の入ったピクルスマーク、そしてその横には(U)(サークルU)のマークが印刷されています。この(U)マークは「コーシャー」適合の証です。
コーシャー(Kosher)とはユダヤ教の食品規定のことで、ユダヤ教徒たちは、素材・原料から加工方法や加工器具に至るまでを、このコーシャーにより非常に厳しく制約されています。これに適合していると正統派ユダヤ協会に認定された食品にのみ、この(U)マークの添付が許可されるのです。

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ピクルスピンの配布と、“57 Varieties”広告

社名も新たにH. J. Heinz社として活動を展開していたヘンリーでしたが、彼の広告のセンスは非常に優れていました。 今回は、彼の才能を証明する、2つの事柄を紹介します。

ピクルスピン

1893年に開催された世界見本市の様子

1893年にシカゴで開催された世界見本市に出展することになったH. J. Heinz社は、会場のはずれにある建物の2階に展示スペースを獲得しました。人通りもまばらなこの場所に人々を呼び寄せるために、ヘンリーはあるアイディアを思いつきます。少年たちを雇い、「Heinzの展示スペースにご来場頂いた方全員に、プレゼントを無料で進呈します」という内容の広告を、見本市 会場のいたるところで配布したのです。その結果、あまりにも多くの人がHeinzの展示スペースに詰めかけたため、回廊が壊れそうになり、警察が呼ばれたほどでした。

ハインツのピクルスピン

このときに無料で配られたプレゼントこそがピクルスピンだったのです。この見本市以来、Heinz社は5,000万個を超えるピンを景品として配布し、同時に、このピクルスピンが商業史上における景品の発祥となりました。

57 VARIETIES

1896年ごろに製作された「57バラエティー」広告

Heinz社の看板商品であるケチャップのラベルにも、ヘンリーの広告センスを見ることが出来ます。それが“57 Varieties”のマークです 。
1896年、ニューヨークの電車の中で自社広告について考えていたヘンリーは、ある靴の会社の「21のスタイルの靴」という車内広告に目が止まり、この広告を自社に当てはめてみようとひらめきました。当時のHeinz社の取扱商品は既に60種類を超えていましたが、なぜか「57」という数字が頭の中から離れず、そのときに“57 Varieties”というフレーズが誕生したのです。ヘンリーは電車から飛び出すとすぐさま印刷屋に駆け込み、広告企画のレイアウト作業に取り掛かりました。その後一週間もたたないうちに、“57 Varieties”のフレーズと緑色のピクルスが描かれた広告が、新聞や看板、掲示板などに次々に登場し、瞬く間に人々たちに浸透していきました。

それから100年以上も経った現在でもこの“57 Varieties”のフレーズは健在で、数々のHeinz製品に創設者の広告センスを見ることができます。
日本国内で販売しているハインツの商品ではトマトケチャップのボトルにはこの“57 Varieties”が載っています。探してみてください。

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食の純粋さを重んじ、近代的食品加工産業の繁栄に大きく貢献

H.J.Heinz社が事業の拡大を進めていた19世紀後半、この時期にアメリカ食品産業大手の会社が次々に誕生し、食品業界は急激な成長を遂げていました。しかし当時は政府による規制が無く、次々に発売される食品には有害な化学物質や染料が添加され、ラベルの不当表示や嘘の宣伝も日常的に行われていたのです。

1904年、ヘンリーと息子たち(左からハワード、クラレンス、クリフォード)

この状態を改善するため、1906年に「純正食品・薬物法」が成立し、食品業界に対し最低限の安全基準が設定されました。この法律の制定には、アメリカ農務省の首席科学者を務めたハーベイ・ワイリー博士が深く関与し、食の純粋さを重んじるヘンリーも博士の法律制定運動を支持していました。
しかしこの運動は、当時、「政府による個人的自由の侵害」として食品業界や一般大衆に全く受け入れられず、またヘンリーも業界の異端児として扱われてしまうのでした。

1901年、H.J.ハインツ社の研究所で働く化学者

それでもヘンリーは、長期的にはこれが業界にとって大切なことであり、また企業存続の最大のチャンスであると信じていました。ハインツ社では、ヘンリーの息子で大学時代に化学を専攻していたハワード・ハインツと義弟のセバスチャン・ミュラーが運動の指揮をとり、市民団体などへの啓蒙活動を実施するとともに、本法案の必要性をルーズベルト大統領に直接訴えました。ワイリー博士も様々な実験を重ね、保存料や着色料、その他の添加物が人体に与える影響を立証するなどして、法案成立を強く要請しました。 その結果、1906年6月23日、法案がついに議会を通過し、不純物が混ぜられたり不当表示がなされた食品・医薬品の取引が規制されることになったのです。この法律制定により、近代的食品加工産業の繁栄が始まり、ハインツ社もその流れに大きく貢献することとなりました。

後にワイリー博士は、この出来事を振り返り、以下のような書簡をハワードへ送っています。「あなたの父親やスタッフの方々が、本法成立にむけての戦いの暗闇の中で、私に対して惜しみない援助を与えられました。その誠意に心から感謝の意を表すものであります。私は皆様の援助がなかったならば、この戦いに敗れていたに違いありません」と。

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1905年、イギリス国内に営業拠点と工場を設立

1901年のHeinz社の広告

ヘンリーの様々な才能のうち、国際的な経営感覚も素晴らしいものでした。Heinz社は最初に国際展開を行った米国企業の1つですが、そのきっかけは、1886年にヘンリーが家族を連れて初めて出かけたヨーロッパ旅行だったのです。
ヘンリーはこの旅行中、ロンドンに二週間滞在しました。旅行中にもかかわらず、シルクハットとフロック・コートに身を包んだヘンリーは、7つの自社製品をもってある店に飛び込みで営業活動を実施します。

ロンドン支社の建物

その店とは、イギリス王室御用達のフォートナム&メイソンでした。店の裏口を出入りする当時のセールスマンとは異なり、ヘンリーは正面玄関から堂々と入店し、購買部長へ直に自社製品をアピールしたのです。その結果、購買部長は7品全品の取り扱いを約束し、初取引が成立しました。こうしてイギリスへの足がかりを築いたHeinz社は、1905年、イギリス国内に営業拠点と工場を設立し、海外事業展開の第一歩を踏み出します。

また、1909年にはカナダにも営業拠点と工場を設立しました。イギリス・カナダにおける事業は大成功を収め、Heinz社は、両国民の生活に欠かすことの出来ない、ベイクド・ビーンズからスープに至るまでのバラエティ豊かな製品を、現在に至るまで供給しつづけてきました。多くの人々が、Heinz社が米国企業であることを知らないぐらい、各国の生活に密着した企業となっているのです。その後もヘンリーは大量の自社製品を携えて世界中を飛び回り、意欲的に新市場を開拓し、現在のグローバル経営体制の基礎を築きました。 常に活動的だったヘンリーでしたが、1919年5月14日、肺炎が原因で永遠の眠りにつきました。享年75歳でした。他界するまで現役を通したヘンリーは、半世紀ものあいだH.J.Heinz社を統率し、その成長・発展に大きく貢献したのでした。

品質管理の重要性を認識し、米国で初めて「品質管理部門」を設置

ハワード・ハインツ(当時28歳)

ハワード・ハインツ(当時28歳)

ヘンリーの亡き後、H.J.Heinz社の二代目社長に就任したのが、ヘンリーの次男ハワードでした。1877年に誕生したハワードは、エール大学では化学を専攻し、卒業後すぐにハインツ社に入社しました。ハワードは兄弟のいずれにも増してビジネスに傾倒し、父の事業に興味を持っていました。そのため、父からの期待にこたえようと、一生懸命に努力したのでした。1906年には妻エリザベスと結婚し、その2年後には長男を授かります。ハワードはその赤ん坊の名前を、尊敬すべき父の名にちなんで、ヘンリー・ジョン・ジャック2世と命名しました。その後、父ヘンリーが他界した1919年、ハワードは42歳の若さで社長職に就任し、以後22年間にわたりハインツ社を統率したのです。

妻のエリザベスと息子のジャックとラスト

学生時代に科学者としての訓練をつんだハワードは、品質管理の重要性を認識し、新たに起用した細菌学者のハーバート・N・ライリーらとともに、食品の製造加工プロセスに科学的な品質管理を導入しました。これにより、ハインツ社は品質保証の基準と手続きのパイオニアとなり、米国で初めて「品質管理部門」を設置した企業となりました。

ハインツ・チャペル。ハワード一家は幅広い方面に支援を提供。<br>
このチャペルはピッツバーグ大学へ寄贈した。

ハワードが社長を務めた時代、1929年と1939年の2度に渡り世界恐慌がハインツ社を襲います。しかしハワードの手腕により、この2度の危機を無事に乗り切りました。恐慌を乗り越えただけではなく、社員の愛社精神を向上させ、新製品の投入により製品ラインナップを拡充するなど、より一層会社を成長させることに成功したのでした。

その後もハワードは、海外の新拠点を設立したり、広告やマーケットリサーチを強化するなど、社の拡大に努めましたが、1941年2月、発作によりフィラデルフィアで亡くなりました。64歳でした。

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1961年、日本で日魯漁業と合弁事業を設立

父、ハワードと一緒のジャック(6歳)

父、ハワードと一緒のジャック(6歳)

1941年に父ハワードが他界し、息子のヘンリー・ジョン・ハインツ2世が33歳の若さでハインツ社の3代目の社長に就任しました。 当時の新聞によれば、彼は「きわめて教養が高く・・・音楽、文学、社会的ふるまい、そして食品に対する嗜好は完璧なまでに磨き上げられていた」と書かれています。大学院卒業後に、英国で修行をしていた時代のジャックの写真を見ると、彼はホンブルグ帽、堅い襟、営業カバンという、当時の営業マンらしいいでたちをしています。

英国で営業マンとしての修行時代に食料品店の前に立つジャック

英国で営業マンとしての修行時代に食料品店の前に立つジャック

彼が社長となったのは、第一時世界大戦の勃発直後で、食糧の配給制や輸入制限、ブリキ缶令による缶入りスープの生産中止など、様々な困難に直面しました。しかし、ジャックは過剰生産能力を活用して戦時物資の製造に協力したり、「赤い羽根募金」で知られる共同募金の会長を務めたり、また米国が孤立主義に陥る中で、積極的にヨーロッパの食糧援助や復興に時間を割くなど、市民と企業のリーダー的存在として活躍しました。

共同募金全国キャンペーンの為に、トルーマン大統領を訪問。共同募金の赤い羽根のシンボルは、ハインツ社デザイン担当の女性によるもの。

共同募金全国キャンペーンの為に、トルーマン大統領を訪問。
共同募金の赤い羽根のシンボルは、ハインツ社デザイン担当の女性によるもの。

1960年以降は、海外展開も積極的に行なわれ、1961年には日本で日魯漁業と合弁事業を設立し、1963年にはミラノのベビーフード会社のプラズモンを買収しました。また、1964年にはメキシコにハインツ・アリメントス社を設立し、1965年にはオレアイダ・フーヅ社の買収により冷凍食品事業に進出するなど、現在に至るグローバル企業としての基礎を造りました。

しかし、ジャックは本質的に、収支状況よりも品質・味・栄養・デザインを重視する人物でした。また、1946年に初めて株式を公開した後も、ハインツ社を大家族のように、もしくは個人企業のように経営し続けました。
当時は米国の食品業界も劇的な変化に見舞われていました。数千軒あった家族経営の食料品店が、大規模なセルフサービス店やスーパーマーケットチェーンに取って代わられ、食品会社も大きな転換を迫られていましたが、ハインツ社は、その時代の変化にも乗り遅れていました。 こうしたハインツ社の改革は、1966年にジャックが会長に退いた後、ハインツ社で初めて創業家以外から社長に就任した、バート・グーキンに委ねられることになります。

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ハインツ社がグローバル企業に発展する基礎を造る

1964年、社長に就任する2年前のバート・グーキン

1964年、社長に就任する2年前のバート・グーキン

ジャック・ハインツが会長に退いたのを受けて、バート・グーキンが1966年に4代目社長兼CEOに就任しました。彼は創業家以外から初めて、ハインツ社の舵を取ることになりました。 子供時代のグーキンは、貧乏ながらも愛情あふれる家庭で育ちました。学校の成績は優秀で、スポーツも得意だった彼は、6歳の時に父からゴルフを学び、13歳の時にはその父を越えるまでになっていました。奨学金をもらって大学に進学し、ボクシングとゴルフのクラブに所属しながら、会計と財政学士号を取得。卒業後は会計士として働きましたが、当時は経済恐慌の真っ只中で、彼はシカゴの場末のボクシング・クラブでボクシングをして、3ドルから5ドルを稼ぎながら暮らしを立てました。

右端がトニー・オライリー、その隣がバート・グーキン

右端がトニー・オライリー、その隣がバート・グーキン

1945年にグーキンは会計主任としてハインツ社に入社します。彼によると「午前11時にピッツバーグに到着したのに辺りは真っ暗で、あらゆる街灯がともっていた」そうです。ピッツバーグは当時、スモッグで空気が汚れており、真昼に道路の反対側が見えないこともあるほどでした。 グーキンの業績は、ハインツ社を「家族主義的な企業から脱皮させ、プロの企業に変革したこと」と言えるでしょう。彼は初めて原価会計を導入、また外部から才能ある人材を採用し、ハインツの組織・財務・経営構造を体系的に変革していきました。その結果、売上は3倍に伸び、当時の米国の食品加工業大手17社の中で、ハインツを最も投資評価の高い企業へと押し上げたのです。後にハインツ社が本当のグローバル企業に発展する基礎を造ったのは彼でした。 グーキンの戦略は論理的かつ合理的で、設計の行き届いた時計の部品のようにかみ合っていました。それは、規律正しい彼の性格を反映しており、「バート・グーキンに合わせれば、時計をセットできた」と言われたほどです。

ゴルフを楽しむバート・グーキン

ゴルフを楽しむバート・グーキン

彼の数多くの業績の1つが、年齢や国籍にとらわれずに自らの後継者を発掘したことでした。彼の後を継いで、後に5代目の社長になるトニー・オライリーは、当時アイルランドで砂糖会社を経営していました。グーキンはオライリーが若干32歳の時に、ハインツUK社(イギリス)の取締役として呼び寄せたのです。 グーキンはこの時、事前に2度オライリーをアイルランドに訪ねましたが、「グーキンの黒い覆いのついた大きなゴルフバックが、荷物の受取所で目の前に流れてくると、人々は故郷に埋葬されるために戻ってきたアイルランド系米国人の遺体と勘違いして十字を切った」というのが、オライリーの得意の話でした。 「ハインツの社長にならなければ何になりたかったか」というオライリーの質問に、グーキンは「プロのゴルファーだ」と答えています。

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ラグビーこそが偉大な家庭教師であり、最高のビジネス研修

ハインツに入社した直後の33歳当時のトニー・オライリー

ハインツに入社した直後の33歳当時のトニー・オライリー

バート・グーキンを継いで、1979年に若干43歳で5代目の社長になるアンソニー(トニー)・オライリーは、その活動に、よく世界クラスという形容詞が用いられました。新聞・雑誌は彼を世界クラスのスポーツマン、最高経営責任者(CEO)、新聞王、企業家と書きたてました。 オライリーが社長兼CEOに就任した当時、ハインツ社の時価総額は9億800万ドルでしたが、1989年末までに、株式の増発なしに90億ドルにまで膨らみました。

入社2年後に、ラグビーの試合で活躍するオライリー

入社2年後に、ラグビーの試合で活躍するオライリー

オライリーは、ラグビーのブリティッシュ・ライオンズの最年少メンバーとして、19歳のときから世界を渡り歩いていました。つまり、小さな国のこの大男を世界の舞台へと導いたのはラグビーだったのです。それは彼に、国際的な生活とスターの地位がどのようなものかを教え、これに対する志向を植えつけました。それによってオライリーは、彼が「最も有名なビジネスマン」である母国アイルランドを深く愛しながらも、「別の世界で大試合に臨まなければならないこと」を理解していたのです。

後にハインツ社5代目社長のアンソニー(トニー)・オライリーは、1936年にアイルランド共和国のダブリン生まれた。陽気な母アイリーンと税関に勤める父ジョンの一人っ子として、溺愛されて育ちました。オライリー家は社交的で、いつもトニーの友達であふれていました。彼は自らの少年時代を「幸せな家庭から幸せな学校に通う、幸せな少年だった」と述べています。

彼が「幸せな学校」と呼んだのは6歳から18歳まで通ったイエズス会の男子校、ベルベデーレ・カレッジのことです。ここで彼はラグビーをはじめ、さまざまなスポーツや演技、歌唱、ピアノなどを学びました。特にラグビーでは在学中から国民的英雄になりつつあり、18歳でアイルランド代表に選ばれて各国を遠征。23歳のときにブリティッシュ・ライオンズのメンバーとしてニュージーランドとオーストラリアツアーで記録した得点は、今も破られていません。トニー・オライリーは日本のラグビーファンの間でも、伝説のプレイヤーとして知られているようです。


彼自身も「ラグビーこそが偉大な家庭教師であり、最高のビジネス研修だった。ラグビーを通して規律、チームワーク、敗北を受け入れること、美しく勝つこと、逆境から這い上がること、そして“桁外れに強力な圧力鍋”の中で生き残ることを学んだ」と言っています

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日本の洋食文化に欠かせないデミグラスソースの開発

稲田 英男

稲田 英男

HJハインツ社のグローバル経営の基礎をつくったオライリーは、1996年から2000年にかけて相次いで社長職、CEO職、そして会長職を退任し、ビル・ジョンソンに引き継ぎました。 ハインツが日本に上陸したのは1961年ですから、その間にハインツ社では3代目社長のジャックから6代目のビル・ジョンソンまで4人の社長を経験したことになります。

1961年、ハインツは日魯漁業(現在の株式会社ニチロ)との合弁会社、日魯ハインツ株式会社をスタートさせました。初代社長は雨宮栄蔵、2代目はカナダ人のモーリス、3代目はアメリカ人のマーガス、4代目はオーストラリア人のバールと外国人社長の経営が続きましたが、設立後10年間は経営を軌道に乗せることができませんでした。

1970年に5代目社長の浅井和夫が就任。この年にハインツ日本はデミグラスソースの商品化に成功します。これが現在の当社の基盤を作ることになりました。この本格的なデミグラスソースの開発の指揮をとったのが、ヨーロッパでシェフの修行をした後、1964年にハインツ日本に入社した稲田英男です。

<デミグラスソースの開発>

ハインツ日本の初代 業務用デミグラスソース
(1970年発売)

ハインツ日本の初代 業務用デミグラスソース
(1970年発売)

ハインツ日本の業績を心配した米国本社は、シェフで米国司厨士協会会長の経験を持つポール・レスケを送り込み、日本ではどんな商品なら売れるのか、その調査をさせました。このとき彼を助けたのが、全日本司厨士協会の会長でレスケと交友関係にあった斎藤文次郎氏でした。

2人は斎藤氏の案内で日本のレストラン、料理店を食べ歩きます。その結果、「日本で成功するには、日本人の舌に合う独自の商品の開発が必要だ」という結論に至ったレスケは、斎藤氏に日本人シェフの仲介を依頼します。当時、丸の内ホテルの総料理長だった斎藤氏は自分の部下で全日本司厨士協会の第1回欧州派遣団から帰国したばかりの稲田を推薦したのでした。

ハインツ日本に入社した稲田は、さっそく商品化の候補を検討しました。そして、最初に注目したのがデミグラスソースでした。

デミグラスソースを厨房でつくるには、まず牛の骨やスジ肉、香味野菜などでダシ(フォン)をとり、別の鍋で小麦粉と油脂を焦がさないように微妙な温度調整をしながら長時間、炒めてブラウンルゥを作ります。このフォンとブラウンルゥをあわせてソースエスパニョールをつくり、それを煮詰めます。半分の量になるまで丁寧に煮詰めることで光沢が出て鏡のようになることから、フランス語の“半分=デミ”と“鏡=グラス”を合わせてデミグラスソースという名前がつけられたのです。

このように膨大な手間と時間とコストがかかることから、稲田自身もプロの料理人として「デミグラスソースが最初からあったら、いつでも料理にとりかかれるのに・・・」という思いを抱いていました。そこで、米国のハインツ本社でも着手していなかったデミグラスソースの商品化に着手したのです。

気さくで温和な人柄であった稲田ですが、仕事では緻密で妥協を許しませんでした。そしてシェフだからこそ限りなく厨房に近い作り方にこだわりつつ、それを工場の生産工程に置き換えるという困難な作業に挑戦したのです。

特にハインツのデミグラスソースの大きな特長であるブラウンルゥの製造は困難を極めましたが、和菓子の餡(あん)を煉るのに使われていたレオニーダーという機械の導入により問題を解決。ついに1970年に、業務用デミグラスソースの発売にこぎつけました。そして 1972年には、家庭用のデミグラスソースとホワイトソースを発売したのです。以来、ハインツのクッキングソースは日本の洋食文化に欠かせないものとなりました。

ハインツ日本の現在のデミグラスソースとホワイトソース、そして、そこから派生したさまざまな洋風ソースには、今も稲田英男が最初にデミグラスソースを開発したときのプロの料理人としての味づくりのこだわりが受け継がれてます。